第6回日本平和学会平和賞・平和研究奨励賞受賞者

 

第6回日本平和学会平和賞/ 内海愛子・大沼保昭・田中宏

 

第6回日本平和学会平和研究奨励賞/小松寛『日本復帰と反復帰――戦後沖縄ナショナリズムの展開』(早稲田大学出版部、2015年)


 

平和賞選考理由

 内海愛子、大沼保昭、田中宏の三氏は、個人の法的責任・権利・地位の地平において、戦争と人間とのかかわりの核心に迫る研究を行った。三氏は、その研究を通じて、いかなる法的地位にある個人が、(1)侵略戦争の開戦の責任を問われるのか、(2)戦争中の俘虜虐待を含む非人道的行為の責任を問われるのか、そして(3)終戦後の戦争被害者に対する給付対象に含まれるのか、などの問いに正面から取り組み、平和/講和の持つ多面的な意味を鮮やかに照らし出した。

 上記三つの問いに関連して、(1)については大沼保昭『戦争責任論序説――「平和に対する罪」の形成過程におけるイデオロギー性と拘束性』(東京大学出版会、1975年)、(2)については内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(勁草書房、1982年)、同『日本軍の捕虜政策』(青木書店、2005年)、そして(3)については田中宏「日本の台湾・朝鮮支配と国籍問題」『法律時報』47巻4号(1975年)85-97頁、同『在日外国人――法の壁、心の溝』(岩波書店、1991年)、大沼保昭「在日朝鮮人の法的地位に関する一考察」『法学協会雑誌』96巻3、5、8号、97巻2、3、4号、1979年―1980年)(同『在日韓国・朝鮮人の国籍と人権』(東信堂、2004年)として単行本化)の平和研究に対する寄与は顕著である。

 内海愛子氏の研究は、「大東亜共栄圏」各地で捕虜虐待などの戦争犯罪に問われた朝鮮人元戦犯148人の大半が、俘虜収容所の監視員としての軍属であったのはなぜかという問いを起点に、被害者でもあり加害者でもある自らの「過去と向き合う」元捕虜の個人的経験の内実を活写するとともに(『朝鮮人BC級戦犯の記録』)、俘虜虐待を生み出した日本軍の組織と政策についても綿密な資料調査を通じて丹念に裏付け(『日本軍の捕虜政策』)、俘虜虐待にかかわる日本の《未済の戦争責任》の全体像を明らかにした。

 大沼保昭氏の研究は、戦争の違法化を機に、戦後処理の二つの局面において《統一体としての主権国家の枠組み》に規範的な修正が加えられるモメントを史的文脈の中に定位する。その二局面とは、戦争責任として、「賠償」型の集団責任ではなく指導者の個人責任が問われるようになったということ(『戦争責任論序説』)であり、そして住民の権利として、「併合」型の《領域住民国籍の自動変更》ではなく、自決権を根拠として新生国家が成立した領域の住民には「権利を有するための権利」たる国籍選択権が本来認められうるようになったということ(『在日韓国・朝鮮人の国籍と人権』)であった。

 田中宏氏の研究は、植民地統治の清算にあたって取り組むべき課題として国籍問題にいち早く着目し(「日本の台湾・朝鮮支配と国籍問題」)、その先駆的研究を通じて、1952年のサンフランシスコ平和条約の発効を機に法務省民事局長通達によって日本国籍を喪失した台湾・朝鮮人は、日本人としておかした戦争犯罪から逃れられない一方で、平和条約発効後の一連の戦争犠牲者援護立法の適用対象から除外されるという不条理、理不尽を告発した。

 また、これら三氏の研究は、高木健一弁護士(関連著書に高木健一『今なぜ戦後補償か』(講談社、2001年)、内田雅敏弁護士(関連著書に内田雅敏『戦後補償を考える』(講談社、1994年)らの活動と連携しつつ、裁判を通じて被害者個人の救済をめざす市民運動に対して、侵略や植民地支配を否定する確固たる知的基盤を提供したことも特筆に値する。

 このように内海、大沼、田中の三氏はそれぞれ研究と実践を通じて平和の実現に尽力したが、それのみならず、三氏は1983年に「アジアに対する戦後責任を考える会」の発足の呼びかけを行うなど行動を共にしたことでも知られる。共著『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』(岩波書店、2014年)は、三氏の活動の歴史的な背景、活動を通じた思想と実践の進化、そしてその社会的な影響を記録している。

 上記の理由により、本委員会は、内海愛子、大沼保昭、田中宏の三氏の一連の研究が平和賞に相応しいとの結論に達した。

平和賞・平和研究奨励賞選考委員会


平和研究奨励賞選考理由

 平和の実現を目指すうえで考えるべきは、いかなる政体の下でそれを達成するかということであろう。戦後の沖縄における平和の課題をこのような視角から考察するには、既存の日米二国間の外交史的研究や沖縄の社会運動研究の枠を超え、「日本・沖縄関係」を分析の焦点に据える視座の転換こそが求められる。

 小松寛氏の『日本復帰と反復帰――戦後沖縄ナショナリズムの展開』(早稲田大学出版部、2015年)は、1952年から沖縄教職員会会長として復帰運動を牽引し、1968年には琉球政府行政主席選挙において革新陣営から「即時無条件全面返還」を公約に掲げて当選した屋良朝苗(やらちょうびょう)(1902~1997)と、沖縄タイムスの記者として、さらに『世界』『中央公論』などの総合雑誌の寄稿者として論壇上で「反復帰論」を唱え、現代沖縄を代表する思想家の一人となった新川明(あらかわあきら)(1931~)を取り上げる。本書を通じて小松氏は、「復帰論」と「反復帰論」とは、沖縄アイデンティティを共有しつつも、何について見解を異にしたのかと問いかける。

 小松氏は、2010年度から沖縄県公文書館において公開の始まった『屋良朝苗日誌』を精読し、1968年11月の行政主席選挙から「72年・核抜き・本土並み」が表明された翌年11月の日米共同声明に至る時期の、屋良朝苗琉球政府行政主席と佐藤栄作首相や愛知揆一外相との思惑の交差を、交渉の両当事者の視点から鮮やかに描き出す。特に、復帰思想・運動の中では、平和憲法を有する政体への復帰が平和の実現(基地撤去)につながるとの期待が共有されていたことに留意する。その一方で、復帰論に内在していた矛盾からも目をそらさない。具体的には、復帰運動の源流たる1950年代の米軍による強制的土地接収に対する「島ぐるみ闘争」は、サンフランシスコ講和条約後の反基地運動による日本本土からの基地撤去の実現と表裏一体をなすものであったこと(なぜなら、日本本土から撤退した米軍の一部が同条約によって日本本土から分離されていた沖縄に移転したから)、そして、「本土並み」とは、核の持ち込み禁止を含む事前協議の適用を意味していたこと、さらに、事前協議の建前にもかかわらず、有事の際には沖縄への核の持ち込みを黙認するとの密約が日米共同声明の裏側で佐藤・ニクソン間で交わされたことにも言及している。

 また小松氏は、新川明の反復帰論を、琉球大学に一期生として入学した新川の『琉大文学』(1953年創刊)掲載論文から体系的に読み込み、岡本恵徳、川満信一の反復帰論との比較、個人的な交流のあった島尾敏雄のヤポネシア論からの影響の分析、さらに1997年の新崎盛暉との「居酒屋独立論」論争の解釈を通じて新川の議論に多面的な考察を加える。新川の反復帰論を、一つの民族が一つの国家をもち、その中で同質的な国民として共生するという同化志向に権力の暴力性を看取した点において評価しつつ、歴史的・地理的諸条件の下に培われた「異族性」を持つ沖縄人の自己決定権を保障する政体論を、さらにいっそう突き詰める作業が必要であるとして課題も見出している。

 上記の理由により、本選考委員会は、小松寛氏の『日本復帰と反復帰――戦後沖縄ナショナリズムの展開』が平和研究奨励賞に相応しいとの結論に達した。

平和賞・平和研究奨励賞選考委員会